こんにちは、ぽに子です。
今日こそ、部屋の掃除をしなきゃ…
しなきゃ、しなきゃ…
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先日、ツイッターでこんな記事を見かけました。
気になって読んでみました。
色々書かれていますが、
要は幼少期からの決断の練習の必要性が書かれていました。
私は野本響子さんの「日本人は「やめる練習」がたりてない」の愛読者ですが、「やめる」という決断をする練習が本当に足りないとつくづく思います。
私も決断の練習は必要だと思っています。
急になんでも決められるようにはならないです。
が、絶えず決断を繰り返していくのは思った以上に負荷が大きく、気持ちが疲れてしまうときもあります。でも、だからこそ、練習が必要なのかもしれません。
↓おススメです!!
また、こんな記事もありました。
もっとも決められる範囲が狭いのが、学校かもしれません。
かなり気をくばらないと、ささいなことしか決断の余地がなくなる
小さな頃から、日常のささいなことで積み重ねていくのは有効だと思うので取り入れていきたいところですが、かなり意識してないと、いつまで経っても、実質、自分で決められるのが「日常のささいなこと」だけだったってことになる気がしている今日この頃です。
日本では、決めないままでも、ある程度生きていける世の中だったりします。
自ら決めないでも既に決まっていて、そのまま流れに乗っていれば、それなりに生きていけちゃう。
どちらかというと、自分で決めたいタイプが苦しい思いをしているかもしれない。
だけど、一方で、決める機会は、気をつけていないと、どんどんなくなります。
失っているのにも気づいていない場合もありそうです。
一度手放してしまうと、取り返すのに、相応の努力と忍耐が必要になってしまいます。
第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
子供の頃に習ってから、何度となく目にしているはずなのに、全然わかってなかった、って自分で思います。
妙にシステム化している社会
日本の社会は妙にシステム化しているように見えます。
すべての物事を、ひとつひとつ決めていかなきゃいけないのは、それはまた億劫だし、積み重なれば多大な時間を費やしてしまっていることもあります。
だから、システム化してある程度決めちゃうっていうのはアリだと思うんです。
ルーティン化して、より自分の優先度の高いものにリソースを使う。
毎日の献立とか、着ていくものとか、カバンに入れておくものとか。
日常のあらゆることを都度都度決めなくてはいけない労力を減らして、他のことに時間を使ったり、ストレスを減らしたり、自分にとって、さほど重要でもないことを毎日決断をしなくて良いのは、効率的です。
だけど、自分で決めたい時には、決められなきゃ。
今日は月曜日だから、予定では焼き魚だけど、どうしてもグラタンが食べたい!からグラタンにするってことが当然あってもいい。
今日は肌寒いからカーディガン羽織ろうとか、傘ぐらい明るい色のものを使いたい、とか、環境や気分に合わせて選択するって、超普通。
ところが、妙にシステム化している社会というのは、個人の領域にまで、あらゆることが決められていて、逆に自分では決められないことになってしまっているところがある。
集団の秩序を守るために、ある程度のルールを設けるというのはあると思います。
でも、ルールを作る前に、踏み込んではいけない部分についてちゃんと確認することを軽視してきちゃったのかもしれない、とも思います。
守らなきゃいけないところを守って来なかった。これくらい大丈夫って軽くみちゃったのかもしれない。
そして、それを認めてきちゃったのかもしれない。
この妙なシステム化は、一人一人が決めなくて良い反面、よほど気をつけていないと、自分で決められることの範囲もじわじわ小さくなっていくと思います。
その妙なシステムは、一方には合理的、一方には決める余地すらないということがあるように見えます。
一部でやりすぎていて、一部でやらなすぎている。
バランスを保つような議論すら行われてこなかったのかもしれない。
学校は心理的安全な職場になっているか?(妹尾昌俊) - Y!ニュース https://t.co/AHUthU5YLo
— 妹尾昌俊(教育研究家) (@senoo8masatoshi) 2021年6月4日
こういうことも、要因としてはあるんでしょうね。
本当は自分で考えて、自分で決めていくというのは、その失敗も含めてとても大事なことだと、多くの人が思っているんじゃないのかな。
せめて子どもには経験させたいと考えている人も多そう。これは私もそう。
でも、自分で決めてきた経験もないのに、いざという時に決めることはできるのかな?
これまで、毎日のささいな決断を積み重ねたところで、決められないことが圧倒的すぎて、抗うことを諦め、やがて決めることを手放していく…という流れはあったと思います。
私も「そういうもんなんだ」と受け止めて流していることもたくさんある。
「おかしいな」と思っても、特に行動には移さないこともたくさんある。
今までの人生を振り返ると、愚かだったなと自分で思うことが結構多い。もう少し術を知っていたら、と思ったり。もう少し経験を踏めたらな…って思ったり。
ある意味、教育の敗北、ある意味、教育の成功。
でも、子どもにはその大切さをしっかり認識して行動していってほしいと願ってる。
かと言って、上手に導ける自信もないんだけど。
いつも通りにできない時こそ、決められるチャンス
今、コロナ禍となり、いつも通りにできない事が多いから、どこも決めなければならないことが増えています。
逆にこれは、この社会において決める練習ができる、チャンスとも言えるんじゃないかな?と思っています。
でもでも難しい。
今まで決めることをしてこなかったんですから。
今まで、さんざん決めてもらってきたから。
チャンスが訪れても、普段から積み重ねていないと、掴めないのと一緒。
今を我慢してやり過ごしておけばいい、ある意味、賢い過ごし方かもしれません。世渡り上手といいますか。大人というか、ね。
だけど、このような状況でも、自分で考えて決めないって言うのは将来的にもコストが高い行為なんじゃないかなって思う。
マスコミを経由した尾身さんと政府のやり取りを見ていて、益々心配が募ります。
とはいえ、ずっとそういう環境で育ってきてるから、いきなりなんて難しい。
周りとの兼ね合いもあるから、探り探りやっていかないといけない部分もある。
でも、できることはあるかもしれない。
わかっているつもりのことでも、なかなか難しいもんです。
全くもって修行が足りてません。
話がちょっと逸れました。
自分で決めるっていうのは、仮に失敗だったとしても、そこを含めて引き受けること。
必要なスキルだってことは分かっているのに、失敗を恐れて易々と選べない。
でもだからこそ、決断には練習が必要だという認識を持って取り組む価値があると思う。
コロナ禍で、自分たちで決めるようにしたこと
小さな事ですが、コロナ禍になり、去年から学校の行事等への参加は、自分たちで決めることにしています。でも、それが合っているのか、子どもにとってどうなのか、常に不安が付きまといます。
なんにせよ、正解はわからない。
考えているうちに頭の中グチャグチャになって投げ出したくなる時もあったりします。
そんな時、つくづく、決めなくていいっていうのは本当に楽だったんだな、と思います。
でも一方で楽を選択し続けるのは、ちょっとずつ自由を手放しているのかも、とも思います。
我が家は、リスクが高い行事は、どうなるかがあまりに分からないから、回避しています。
去年から、授業参観も親子ともに欠席しています。
それと、宿泊を伴う行事には不参加表明をしています。
結局今のところ、宿泊行事はそのものが取りやめになっています。
そりゃ、学校での子どもの様子は見たいし、修学旅行とか行かせてやりたい気持ちはあります。友達との関係とか…考えちゃうしね。考えがぐるぐるしてます。
たぶん、決めるための判断材料に、他人との違うことをどう捉えるか、というのが大きく鎮座している気がしています。
一応、子どもの意向も確認していますが、実際経験していないから本当に大丈夫かはわかりません。後から、こんなはずじゃなかった!ってなることもあり得ます。
だけど、今時点で自分たちが最良と思う方法を話し合って選択したことなので、仕方ないです。その時は受け止めて一生懸命考えようと思っています。
今後も状況も見ながら、誰かに決めてもらうんじゃなくて、自分で考えて決めるということをしていかなくてはいけない機会が続きそうです。
我が家に当てはめると、学校関連ですぐ思いつくことで、これから決めなきゃいけないことに、プール、オリパラ観戦、修学旅行があります。
子どもの意見も聞いて、ある程度方向性は定まってきていますが、もう少し時間をかけて話し合ってもいいかなと思っています。
少年野球もやめた
あと、少年野球を辞めました。
これは子どもが決めました。
コロナとは直接関係ないかもしれませんが、一時期コロナで休みが続いたのもキッカケではあったと思います。
我が家は、お母さんが参加しない特殊な家族でしたので、結果オーライお互いのため、とも言えますが、子どもは野球そのものは好きだけど、あまりに時間が取られすぎたり、モチベーションを押し付けられるのが、しんどかったみたい。(過去にも辞めたいけど思いとどまったということを何回か繰り返しています。)
親としては、続けてきたことをやめるというのは、継続力とか忍耐力とか、チームのためにとか、チームメイトとの関係性とか、そういった部分に影響するかと余計なことを考えてしまう部分もありましたが、どちらにせよ、自分で考えて決めたことを最大限尊重したいという結論に達しました。
後付けなら何とでも言えますしね。結果は誰もわからないから。
だけど、自分で決めたということには大きな価値がある、と思います。
で、彼が野球をやめて、熱心に取り組んでいるのが「ゲーム」です…。
(マジ、どうなるんだろー)
そして、親が思っているより本人はあっさりしていて、学校でも何の問題もなく、ゲーム仲間も増え、今まで以上に楽しく過ごしているようです。
何より、自分でしたいことを決められるのが嬉しくてたまらない様子でした。
彼は彼で、自分の合うフィールドを探している最中なんだと思います。
結果は誰にもわからない
実際、決めてきたことの影響がどう言う風に出て来るか、本当にわからないです。
どれも大したことではないかもしれないけど、大人も子どもも、意識して少しずつでも自分で決めていく練習をして、繰り返して学んでいくしかないんだと思う。
あえて意識しなければ、決める機会がないままになっちゃう。
この前、ゲームをやってもいいかって子どもが聞いてきたことがありました。
我が家は一応、やること(宿題・英語・読書)をやってからゲームをするという約束を交わしています。
私が口うるさく言い過ぎたかな?と思って、ギョッとしました。
自分で判断できることなのに、自分の行動の許可を委ねてきたから、どうしたのか聞いてみると、子どもは「自分で考えるのが面倒くさかった」と言っていました。
うーん、まぁねー…その気持ちはわかるけど。
めんどくさいよねー。
なかなか難しいもんです…。
私は、自分のことは自分で決めていいって、教えたいんですけどね。
ではでは。
ぽに子